堀川文化探索隊足跡 ──過去の探索解説から

 (ここに掲載してあるものは過去の探索時に配布した解説です。詳細はメールでお問い合せ下さい)
以下の文章の無断転載を禁じます。転載ご希望の場合はメール(堀川文化探索隊トップ)でお申し込み下さい。

「俗名でたどる名古屋の町 鳥屋横町〜藪の町まで

(2007年4月21日(土)14時〜16時00分 地下鉄上前津駅)

鳥屋横町

 明治四十三年の関西府県連合共進会の開催を機に、名古屋の街は、すっかり変貌した。会場の鶴舞公園に向けて、何本もの道路が整備された。大須の町を分断するようにして開通したのが岩井通り線だ。
 古い大須の町並みが取り壊されて、新しい大通りができた。
 清須越の由緒ある寺も、取り壊され、この地から姿を消してゆく。
 明治四十二年、善篤寺の末寺である光真寺は、二百九十五坪の境内すべてが、岩井通り線の敷地となったので、東山に移転していった。
 光真寺には、多くの人々の篤い信仰を集めている薬師如来仏が祀られていた。この薬師如来仏について、『金鱗九十九之塵』は、次のような話を載せている。

 当寺ハ元松寿院と云て、清須より此地に引移と云々。又薬師如来ハ霊仏にて、往時延宝(一六七三〜一六八一)の頃、開扉ありしに、凶悪の士ありて、薬師信仰の人の此士に行当りしを、不礼也とて一刀に討はたし、足ばやに立退しが、きられし人は地に倒れながら、聊かも恙なかりしかば、偏に薬師仏の身がハりに立せ給ひしと、いよいよ信心せしとぞ。是より俗にきらずの薬師と称しもてはやせりとぞ。

 境内が二百八十五坪の東蓮寺も、門前町警察署に敷地を売却して、東山に移転してゆく。

 光真寺の北角に、鳥源という雁鍋屋があった。店主の橋本源七は、宣伝上手であった。間口一ぱいのペンキ塗りの大横看板を屋根にかかげた。看板には空飛ぶ三羽の雁が描かれていた。看板を描いたのは、当時の名古屋の人気画家の奥村石蘭だ。石蘭が看板を描いたのが評判となり、多くの人々がこの看板絵の見物に訪れた。
 評判の鳥源にちなみ、東蓮寺の南から裏門前町へ通ずる道を鳥屋横町と呼んだ。この横町も、明治四十三年二月、岩井町通り線の開通により、すべて消えてしまった。

 鳥屋横町の住人で、漢方医として名前のよく知られていたのは、渡辺正中だ。明治十七年・十八年の二年間、光真寺では、?半義塾が開かれていた。塾主は山田大応。英語は、後に金城女学校の校長となるマカルピンが教えていた。スマイルズの『自助論』、『ナショナルリーダー四』などを教材として使っていた。?半義塾は、後に万松寺に移ってゆく。
 西別院の北向かいに住んでいたのは、三国一の甘酒屋の大口高根だ。多芸多才の彼は、伊勢門水、松井鶴羨、井上菊次郎たちとお洒落会を結成し、風雅な遊びを楽しんだ。
 大口高根の住居の近くに、駒屋という蝋燭屋があった。主人の名前を駒屋歌右衛門という。歌右衛門は芸名で、本名は古川孫八郎という。歌右衛門という大それた芸名を使う彼は、田舎まわりの座頭であった。
 蝋燭屋としての彼は、東別院の朱の大蝋燭を一手に用達していた。製法を秘して蝋燭のもえがらも家に持ち帰り、誰にも見せることがなかったという。

 大須の町は、伏見通りにより分断され、岩井通りによって分断された町だ。

手たたき地蔵

 門前町と橘町の堺、本町通りより東側を菖蒲川町といった。この町は、江戸時代には釜屋横町と呼ばれていた。むかし、北角に釜屋何某という金持ちの酒屋があったので、そのような俗名がついたのだ。
 菖蒲川町は、明治になってソブ川町と呼ばれるようになった。ソブとは汚い水に浮かぶ鉄さびのような地渋のことだ。この町を流れる川が、ソブの浮かぶ汚い川であったので、ソブ川町という俗名がついたのであろう。

 本町通りより西側の町筋は、白鳥材木役所の手代たちが住んでいたので、手代町と呼ばれていた。

 菖蒲川町筋から岩井通り線の間、本町通りに面して天寧寺、安用寺、全香寺、来迎寺と四つの寺がある。
 天寧寺は円徳院と号す善篤寺の末寺で、もともとは清須外町にあった。蒼空隆公の開基で、慶長遷府の時、今の地に移ってきた。元文三年(一七三八)に、寺号を天寧寺と改めた。
 本堂と並ぶようにして、三宝殿が建っている。三宝殿の本尊は三宝荒神で、織田信長の守本尊である。三宝殿には、おびただしい数の鶏の絵馬が飾られている。文化・文政の頃(一八〇四〜一八三〇)より荒神信仰が広まり、願いごとがある時には、粘土で作った素焼きの一対の鶏のうち、雄の方をお供えし、祈願が成就した時には雌をお供えするという信仰があった。いつか素焼きの鶏にかわり、絵馬が使われるようになった。

 この三宝殿の北側に、明治十二・三年頃に奉納座という芝居小屋があった。

 安用寺は、太治山と号す善篤寺の末寺で、天寧寺と同じく清須外町にあった。慶長遷府の時に、現在地に移ってきた。杉の町に上使饗応所ができる以前は、この寺が上使を迎え饗応をした。初代藩主の義直も、二代藩主の光友も、しばしばこの寺を訪れ上使と対面をした。この寺の太治山という額は光友が書いたものだ。
 境内の一画に稲荷堂がある。明治年間、この稲荷堂は、多くの参詣人で賑わっていた。昼間はいうまでもなく、夜間も、ひきもきらさず参詣人が訪れた。夜中に参詣人が、手をたたき、お祈りをすると狐がいずこともなく出てくる。格子に近くまできて、参詣人をじっと見ていたという。稲荷の神の使いである狐が、姿を現すというので、安用寺はますます評判となり、この稲荷は手たたき稲荷と呼ばれるようになった。

 安用寺の南角に寿司常というたいそう繁昌している寿司屋があった。主人は上州生まれの勇み肌で、全身に倶利伽羅紋紋のいれずみをしていた。大正の終わり頃まで、チョン髷をしていた。

赤福地蔵

 酒井順子のエッセー集『丸の内の空腹』(角川文庫)の中に、「銘菓を巡る出張」という、名古屋の名菓を紹介した一文がある。その一節に、赤福について、次のように書いている。

 優秀な菓子が意外と多いのが、名古屋です。私は、学生時代まで名古屋という街へは行ったことがなく、会社に入ってから初めてでした。名古屋駅で驚いたのは、ホームの立ち食いそばがきしめんだったことと、いたるところで伊勢の「赤福」を売っている、ということ。
 「赤福」といえば、そのナマモノ性の高さから、「週刊文春」の広告でお目にかかる他はあまり目にする機会が無いという私にとっては「幻の菓子」。それが、名古屋では土産物店に山積みにされているのです。私はそれだけで、
 「名古屋はいい街だ!」
 という確信を持ちました。

 東京では、赤福は購入することのできない幻の名菓であることがわかる一文だ。
 裏門前町通りを歩いていく。寺の前で、幟がはためいている。幟には「赤福地蔵」と染め抜かれている。珍しい名前のお地蔵さまだ。何かお地蔵さまにまつわるいわれがあるかも知れない。お地蔵さまの祀られている金仙寺に入ってゆく。住職を訪ねて、赤福地蔵のいわれを聞いてみた。
 「門前町の辺りで、江戸時代、瘧が流行りました。大勢の人が亡くなりました。どうしたら病気から免れることができるか、死なないですむのか、藁にもすがる思いで、人々はあんころ餅をつくり、路傍のお地蔵さまに供えました。お祈りのため流行病はなくなりました」
 あんころ餅は、餅が餡で包んであって赤い。病気から人々を救い、福をもたらした餅なので赤福餅だ。赤福地蔵の柔和な表情を見つめながら住職の説明を聞いていた。

 伊勢神宮に名代の赤福餅がある。伊勢の赤福餅と赤福地蔵とは何のつながりもない。しかし、藩主宗春の時代に、すでに伊勢の赤福餅は名古屋の街で売られていた。
 本町通りから東に入ると総見寺がある。総見寺の近くに、大きな樅の木が空高くそびえていた。いつしか本町通りから総見寺に入る道は、樅の木横町と呼ばれるようになった。樅の木横町の南角で、赤福餅は一つ三文で売られていた。
 赤福餅が樅の木横町で売られるようになったのは、享保年間(一七一六〜一七三六)の末のことだ。この時期、名古屋の街は、異常なほどの熱気につつまれていた。七代藩主として、宗春が名古屋に入ると、節約を奨励する将軍吉宗に対抗するかのように、遊郭を許可し、藩士の芝居見物を許したりなどした。名古屋の街は賑やかになり、人々は浮足だった。人々は遊郭で遊び、芝居見物を楽しんだ。人が集まれば、ものが売れる。さまざまな店ができた。名古屋が繁盛している様子を聞いて、他国からも商人が一旗あげようと名古屋に入ってきて商売を始めた。赤福餅も、そのうちのひとつだ。
 赤福餅は宝永四年(一七〇七)の創業で、浜田治兵衛が五十鈴川近くに店を出したことに始まる。赤福餅の名は、伊勢参りの赤心慶福の文字をとって付けられたものだという。
 名古屋の景気のよいことを聞きつけて、店を出したのは赤福餅だけではない。江戸からは幾世餅が名古屋に来て、店を構えた。
 宗春の時代の名古屋の繁栄を描いた『享元絵巻』にも、門前町の幾世餅の店は描かれている。幾世餅は、門前町の極楽寺前の店の他、栄国寺筋、崇覚寺門前、葛町などにも店を出した。幾世餅の店が名古屋にあったのは享保十六年(一七三一)から元文三年(一七三八)までだ。この期間は、ちょうど宗春が藩主であった時代と一致する。宗春が名古屋に来るとともに、餅は売り出され、宗春が失脚するとともに、幾世餅は店をたたむ。
 幾世餅は、餅皮で餡を包んだ餡餅で、江戸名物であった。

 『幾世餅』という落語がある。
 米屋の職人が、吉原の花魁、幾世太夫の錦絵を見て一目ぼれ。恋わずらいにかかって寝こんでしまう。医者の藪井竹庵から、この話を聞いた米屋の主人は、「三年分の給金十両が太夫を座敷に呼ぶだけでかかる。お前が三年間、一生懸命働いたら、太夫に会わせてあげます」という。太夫に会いたい、ひたすらその思いだけで、職人は三年間一心不乱に働く。
 三年後、竹庵の案内で吉原にあがった職人は幾世太夫と出会い、首尾よく思いをとげる。
 「今度、いつ来てくれます」と太夫から言われ、職人は経緯を洗いざらいうちあける。感動した幾世太夫は「年季があけたら、女房にしてくれ」という。
 一年後、晴れて一緒になった二人は餅屋を開き、幾世餅として売出し、大繁盛する。
 同工異曲の落語に『紺屋高尾』がある。
 こちらの方は、紺屋の職人が吉原一の傾城高尾太夫にほれるという話だ。

 江戸の町奉行、根岸の著述した『耳袋』(東洋文庫)の中に「両国橋幾世餅起立の事」が載っている。それによれば、晴れて一緒になった二人に、次のような事件が起きた。
 吉原の遊女幾世を妻として両国橋で商売を始めた小松屋は、店に日本一流幾世餅と染めた暖簾をかけていた。浅草御門内藤屋市兵衛より「幾世餅という名の餅は、もともと私の所で売り始めたもので、暖簾も藤の丸の印を用いていました。近年、近所に同様の商売を始め、暖簾も藤の丸を用いている店があります。得心できません」と町奉行所に訴え出た。町奉行、大岡越前守は、小松屋を呼び出して聞いた。
 「私の妻は、吉原の遊女で幾世と呼ばれていました。私のところで売る餅も、しぜんと人々が幾世餅というようになりました。紋所は前々から使っておるものです」
 両者の言い分を聞いた大岡越前守は「両者とも言い分は、もっともだ。私に考えるところがある。まかせてくれるか」と言った。藤屋、小松屋ともに「恐れ入ります」と平伏した。
 「双方が近くで商売をしているので、こういう問題が起る。小松屋は妻の名を用いて商売をしている。藤屋は、前から幾世餅という名で餅を売っている。両者とも致しかたのないことだ。双方とも看板に江戸一と印し、今から江戸の入口にその訳を記すがよい。藤屋は四ッ谷内藤新宿に引越し、江戸一の看板を出す。小松屋は葛西新宿へ引越し商売をする。どちらも新宿という所なので、お前たちが同じ名前の餅を売って商売をしても、おかしくはないはずだ」と裁決をした。内藤新宿も葛西新宿も辺鄙な所なので、両者は相談して訴えを取り下げ、同じ場所で商売をつづけた。

 東から幾世餅が名古屋に来れば、西からは草津名物の姥ヶ餅が名古屋に店を構えた。
 場所は赤福餅と同じ樅の木横町だ。餅は一つ一文であった。
 歌川広重の保永堂版東海道五十三次の草津宿の絵では、旅人がのんびりと姥ヶ餅を食べている図が描かれている。
 草津名物の姥ヶ餅は寛文年間(一六二四〜一六四四)、近江の郷代官六角左京太夫の子孫が滅亡された時、三歳になる遺児を養育するため乳母が商い始めた餅だ。その名物の餅が、門前町で売り始められる。

 宗春治政下の名古屋本町通り、それは諸国からの旅人が往来する道であり、諸国からの名産が入ってくる道であった。街道沿いには、諸国の名産が売られていた。

経堂筋

 畏れという感情が喪失して久しくたつ。幼時の頃、夕方、ひとり鎮守の森の前を通り過ぎる時、何か慄然とした感情にとらわれた。お寺の前を通り過ぎる時も同じだ。
 八事の親類を訪問した時のことだ。同じ道を何度も、くり返し通るだけで、親類の家になかなかたどり着くことができない。狐に化かされたのだと思った。
 狐狸に化かされるということも、人魂が墓場の上を浮遊するということも、現在では遠い昔の出来事となってしまった。そんな話を持ちだせば、笑われるのが落ちだ。
 明治の中頃、狸が出現して、通行人をだまして悪戯をする、人魂が浮遊するという通りが、下前津の地にあった。長栄寺の北側の東西の通りの経堂筋だ。経堂筋という俗名は、長栄寺の裏に経堂があった所から付けられた名前だ。経堂に隣接して、昼でも小暗い森があった。森の傍は桑畑だ。この森の中に、狸が棲息していた。狸は人家に出没して、よく悪戯をした。草履を隠して人々を困らせる。夕方には木綿をよる音をたてて、人々の耳をそばだたせる等という悪戯は序の口であった。時には質のよくない悪戯をして人々を困らせた。
 ある人が、経堂筋の親類の結婚式に招待された。酒をしこたま飲み、夜おそく籠詰めのご馳走を下げて、経堂筋を千鳥足で歩いていた。突然、まっ暗闇の中に、大きな山が現れ、道をふさいでしまった。何事かと肝をつぶさんばかりに驚いたが、どうすることもできない。道端にへたへたと座りこみ、しばらくの間目をつむり、じっとしていた。いつしか山は消えていて、無事に家にたどり着くことができた。
 経堂の墓地からは、人魂が空中を浮遊し、通行人を驚かせるということが、しばしば起った。

 幕末から明治にかけて、名古屋は歌舞伎の名優を数多く輩出している。経堂筋の南側の家に誕生し、長くそこでくらしていたのが中山喜楽だ。
 中山喜楽は、淡路島の出身で、上方歌舞伎で活躍していた中山喜楽の養子となって、その名を襲名したのが、経堂筋の中山喜楽だ。
 喜楽は、当時の人気俳優坂東彦三郎に師事し、一時期坂東鶴五郎と名乗った時期もあった。嵐璃寛の指導を受けて、俳名薪獅は彼よりもらったものだ。
 中年になり、名古屋にもどった喜楽は、名古屋の生んだ名優としてもてはやされた。彼の相手役をつとめたのが、前津土手町に住んでいた中村芝五郎だ。芝五郎の息子の芝三郎は、すこぶるつきの美貌であった。芝五郎は、息子に虫の付くのを恐れ、けっして独り歩きを許さなかった。銭湯に行くにも送り迎えをし、張番をつとめたという。佳人薄命のことば通り二十歳で早逝した。
 中山喜楽も息子を明治二十八年に亡くしている。二十七歳の若さであった。
 末広座の舞台で活躍する喜楽の名声は、ますます高まり、門人も多く集まった。そのうちのひとりが、京都から父親に伴われ入門した市川中車だ。明治三十五年の秋、喜楽は大須の歌舞伎座で引退興行を行なった。
 名優の最後の舞台を見んものと多くの人々がかけつけた。

牛長屋

 名古屋の幹線道路本町通りを、多くの旅人が往来した。旅人ばかりではない。外国からの賓客である朝鮮通信使も、本町通りを通って江戸に向かった。外国の使節を一目でも見ようと、本町通りに人々が押し寄せた。
 朝鮮通信使の主だった高官は、性高院に泊まった。従者たちは、それぞれ寺院に分宿した。
 『金鱗九十九之塵』に、次のような記述がある。

 明和元申年朝鮮人来朝して江戸通行の時、当府下にては性高院を宿坊と定。長栄寺うら門の辺りに仮家を建て、此所に牛を入れしと云伝ふ。其後其小家をしつらひて、人の住しと也。故にそれより字を牛長屋と呼しよし。

 牛長屋の牛は、どういう目的で飼われていたのであろうか。数多くの通信使を描いた絵巻を見れば、牛車として牛を飼っていたのでないことは明らかだ。通信使の一行のなかの料理人が豚を調理している図がある。牛長屋の牛も、使節を饗応するために飼っていたものであろう。

 牛長屋は、いつしか人々が住む長屋へと変わってゆく。
 長栄寺界隈は、今も昔ながらの閑所が残り、長屋が残っている。しかし、それも今は稀少価値になりつつある。長栄寺の傍らには銭湯があり、高い煙突がそびえていた。しかしその銭湯もいつしか取り毀され、長屋もしだいに姿を消してゆく。

 長栄寺という寺号は、織田信秀の妹、小林城主牧義清の夫人である、長栄寺殿槃室栄公禅尼から取って付けられたものだ。
 この寺は天平十三年(七三一)、聖武天皇の勅願によって、金光明四天王護国寺と号し、中島郡萩園村に建てられたものだ。神護景雲三年(七六九)には、洪水により堂宇は流失する。弘仁年間(八一〇〜八二四)海東郡森山村に堂宇を再建し、寺号も永見寺と改めた。その後も、兵火にあい焼失し、わずかに一草堂を残すだけとなった。
 文禄年間(一五九二〜一五九六)、長栄寺殿が清須に、この寺を新しく建て、明叟周見を招き、開山とし、寺号を今の名の長栄寺とした。慶長遷府(一六一〇)に名古屋の矢場町に移り、さらに天和二年(一六八二)に現在地に移ってきた。

 長栄寺境内に蘿塚がある。蘿塚とは、横井也有の文名を後世に長く伝えんとして、弟子の石原文樵が建てたものだ。「也有雅翁」と刻まれた自然石に、つたがからまっていたので、いつしか蘿塚と呼ばれるようになった。この碑は、也有が生存中に建てられたものだ。『鶉衣』の中の「蘿塚の記」を也有は次のように記している。

 予も一たびは杖を曳て我と我が名の石に向ふ。是も亦さる因縁のあればにやあらむ。
   何にかも人はしのばむなき跡の石に
   はかなき名はとどむとも

 明和六年(一七六九)、也有六十九歳の時であった。

薮の町

 裏門前町通りを、南に進んでゆくと東別院に突きあたる。江戸時代、このあたりは薮がいちめんに生い茂っていた。人々は、この地を薮の町と呼んだ。
 突きあたった地点の東側の地域は、土手町とよばれていた。もともと、この地には御手先組の組屋敷が何軒も建っていた。御手先組とは、藩の下級役人のことである。下級役人の役宅は、文政年間(一八三〇〜一八四五)東別院の火除け地として、取り払われてしまった。御手先組は、古渡町に引っ越してゆく。役宅の跡地は町屋となった。町屋の南境に土手が築かれた。土手町という町名は、この地にあった土手にちなんで付けられたものだ。

 薮の町、土手町が町家となったのは、貞享四年(一六八七)のことだ。この薮の町に、持福屋というあいまい宿があった。薮の町の北側には、梅香院がある。
 梅香院について、『金鱗九十九之塵』は、次のように記す。

 当院は、往古下津村正眼寺の末寺、中島郡奥田村に在し、観蓮寺と云し禅窟を、貞享元申子年に此地に引寺に被仰付、則梅香院と改号なし、同三寅年、寺地拝領して堂宇創建なりにき。又其節寺社奉行所より被下し御証文も有之。其後元禄十六年末七月十三日、瑞龍院様の御六男但馬守友著卿の御息女見世姫君様早世し給ひて奉レ葬二当寺一なり。

 貞享三年に、この地に寺を創建したのは、尾張藩主の光友だ。光友は、側室の死を悼み、寺を建立し、側室の法号梅香院を寺号とした。
 梅香院の門前にできた町筋は、梅川町と呼ばれた。この梅川町で、天保十二年(一八四一)十一月十二日、世間を震撼させる出来事が起こった。

 梅川町のぶたのおまつの所に、二十をすこし越したばかりの美人がいた。名をお庄という。お庄に橘町の古道具屋、鳴海屋勘蔵という五十年配の大酒のみが首ったけとなった。隣の髪結い女を仲にたて、お庄を愛人とする交渉をした。交渉は成立し、近所のものを呼んで飲めや歌えの大騒ぎをする。勘蔵は気持ちよく眠ってしまった。招かれた客のひとりに指物師の伊三郎がいた。
 勘蔵が寝ているすきに、伊三郎とお庄は、手に手を取りあって、勘蔵の家をぬけだし、茶屋町の山田屋お高の家にかけこむ。
 眠りから覚めた勘蔵は、必死になってお庄の行方をさがす。山田屋に来た勘蔵は、お高の止めるのも聞かず、お庄を探しに二階にかけ上ってゆく。そうはさせじとお高は、勘蔵の裾を引いて離さない。勘蔵は、お高を梯子段からつき離す。お高は、うち所が悪く死んでしまった。
 勘蔵は、すぐにかけつけた役人に取りおさえられる。お高の死骸は、勘蔵の取り調べが終るまで動かすことができない。そうこうしているうちに何匹ものねずみが出てきて、お高の死骸を食い荒してしまった。
 お高は、妾をして旦那からしぼりとった金で、高利貸しをして、貧乏人を苦しめていたので天罰があたったのだと世間の人は噂した。

 梅香院の北、日置と前津の堺にあたる地は堺町と呼ばれた。堺町と梅川町の間には、享保・元文年間(一七一六〜一七四一)には陰間茶屋があった。

「俗名でたどる名古屋の町 ねずみ坂いたち坂

(2007年3月17日(土)14時〜16時00分 地下鉄上前津駅)

百メートル道路

 太平洋戦争の数度にわたる空襲によって、名古屋の街は壊滅的な打撃を蒙った。終戦直後の人口は、七十万人にも減少していた。焼失面積は三千八六〇ヘクタールに及んだ。
 焼け野原と化した名古屋の街に、人々はバラック建ての家を建て、新しい生活を始めた。名古屋市は罹災者が厳しい冬を乗り越えるための、簡易住宅の建築を始め、六・二五坪の住宅を八千戸建設した。その住宅は、三千五〇〇円の価格で売り出された。
 このような応急の処置を講ずるとともに、昭和二十年十月に、名古屋市の将来人口を二百万人と想定した復興計画を発表した。復興計画の中心となって活躍したのは、田渕寿郎である。中国の戦線から帰り、三重の田舎にいた田渕寿郎に戦災復興事業をまかせるために名古屋市の技監として呼びよせたのは、十四代名古屋市長の佐藤正俊である。佐藤の意をくみ、田渕は徹底した区画整理を行なった。昭和二十一年三月十四日に開催された名古屋市議会の承認をうけて、田渕寿郎のたてた復興事業計画は実現される運びとなった。
 田渕のたてた計画の眼目は、新しい道路は自動車二台が速度を落とさずにすれちがうことができるような幅にすること、墓苑を新設して各寺院の墓地を移転すること、高速度鉄道を建設することなどであった。彼のたてた事業計画のなかで、人々が最も驚いたのは、百メートル道路によって市内を四分割するという案であった。
 田渕寿郎は『或る土木技師の半自叙伝』の中で、百メートル道路について、次のように述べている。

 普通の道路という観念とはちょっと違うが、百メートルの防災道路もいまではひとつの名物にさえなりそうである。東西・南北二本の百メートル道路により、名古屋市を大きく四分割するという考え方の根底にあるものは、災害を防止したり、避難場にすることであった。これは百メートル道路だけでなく、新堀川や堀川の両側に十五メートル以上の道路を設けたことにも、災害時の活動がしやすいようにという考えが含まれている。百メートル道路をつくりはじめたころは、世間の人は飛行場でもつくるのか――と笑ったが、いまではそういう人もいない。この道路には、中央にグリーン・ベルトを設け、都市の美観にも生彩をそえフランスでいえばシャンゼリゼに相当する遊歩地帯にしようと、着々工事が進められた。

 百メートル道路を通すには、多くの民家やビルを移転させなければならない。現在の久屋大通りの中心部、広小路通りの南側に建っていた朝日生命保険名古屋支社はビルをそのまま曳いてゆくという曳家移転工法が用いられた。
 久屋大通りの中心部にそびえ立つテレビ塔は、新しい都市名古屋の象徴であり、復興事業のモニュメントとして建てられたものだ。

東陽通り

 山田才吉という希代のアイディアマンがいた。名古屋名物の守口漬は、彼の考案によるものだ。
 才吉は宏壮建造物を建てるのが好きであった。彼が建造した東陽館、南陽館の名前をとり、宏壮建築に通ずる道は東陽通り、南陽通りと呼ばれた。俗名は、いつしか正式の呼称となる。東陽町、南陽町という町名も、東陽館、南陽館がその地にあったから付けられた名前だ。

 明治十四年、若宮神社の西隣りの地で、彼は考案した守口漬の店を構える。守口漬は飛ぶようにして売れてゆく。漬物の販売で巨利を得た彼は、その資金を元手に港区東築地に五万坪の土地を購入し、明治十七年、愛知県で最初の缶詰製造工場を造る。
 缶詰製造は、思いもかけない形で彼に幸運をもたらした。明治二十七年、日清戦争が勃発する。陸軍は外地での保存食として、缶詰を使用することを決め、才吉に発注する。才吉は、東京・大阪に支店、工場を新設し、陸軍に納める牛肉缶詰を製造した。
 三十七年に起った日露戦争は、さらに莫大な利益を彼にもたらした。
 才吉は缶詰製造で得た資金で、明治二十九年、丸田町の交差点付近の広大な地に東陽館を建設する。東陽館は広大な地の中に、豪壮な本館がそびえていた。間口は百間、奥行は約七十間、二階建てで屋根はヒハダぶきであった。
 二階の大広間は舞台付きで三百九十六畳あった。階下は二十室あった。
 庭には、山あり、池あり、そのなかに幾つかの亭が建っていた。池では舟遊びを楽しむことができた。人々は東陽館を人工の楽園と称した。現在各地で造られている巨大娯楽施設を、すでに才吉は、明治の時代に造っていたのだ。
 明治三十六年八月十三日、東陽館は炎上する。この大火は旭遊郭の火事とともに、明治の二大大火に数えられている。
 火事の後も、才吉は東陽館の営業を続けるが、すでに昔日の面影はなく、大正の末に営業を中止することになる。

 東陽館の名をとって付けられた東陽町が誕生したのは明治二十六年だ。矢場町から丸田町、老松へと東陽館に通じる道路が開けた。この道路を中心として、田は宅地へと変わってゆく。東陽町が誕生した明治二十六年の戸数は六十戸。明治四十四年には四千余戸へとまたたくうちに戸数はふえていった。
 大正年間、東陽館を失った東陽町は、商店街として生まれかわる。東陽館の焼け跡近くに東陽公設市場が建てられた。市場には、買物客がいつもあふれていた。人が集まる通りは店ができる。一軒、二軒と店ができ始め、いつしか通りの両側は商店で埋まってしまった。
 戦前には市内五大商店街の一つに数えられるほどの賑わいであった。

医者小路

 大正十三年、松坂屋が南大津通りに百貨店の建設に着工した当時の住宅地図を見ている。
 松坂屋のすぐ南を東へ抜ける小路に浅井小児科医院がある。その隣は浅井内科だ。医院が並んでいるところから、この小路は医者小路と呼ばれた。
 松坂屋の南大津通りへの進出により、南大津町は大きく変貌した。

 広小路通りと本町通りの交差する地点は、かつては名古屋の中心地であった。
 大正十四年一月二十七日、わずか一坪の土地が三千百五十円で売られた。買手は中村呉服店である。中村呉服店は、この年まで広小路通りから東側北へ二軒目で商売をしていた。中村呉服店が買った土地は、広小路、本町通りが交差する地点、東側にあったすし屋の土地である。本町、広小路角は土一升金一升の名古屋市内で最も繁華な、賑やかな土地であった。この年、千種町豊前に新設された名古屋市営の千種住宅の一戸の家賃は十一円であった。
 中村呉服店が広小路本町角の土地を購入したこの年、いとう呉服店は南大津通りへ新築移転をした。『松坂屋五十年史』は、その経緯を次のように記している。

 栄町角の名古屋店は、開業満十五年、対外的には名古屋の中心街をつくりあげるとともに、社内的にも、本社としての使命を堂々と果してきましたが、将来の発展をおもえば、すでに狭すぎるおそれがありました。これに備えて、大正四年に購入してあった南大津通二丁目の千四百坪に、いよいよ新築移転することとなり、十三年三月に着工して一ヵ年で竣工をみました。この頃の東京では、大震災後の傾向として、耐震耐火の鉄骨コンクリート建てが台頭してきた時代でありましたので、名古屋店もその例にもれず鉄骨建ての地上六階地下二階、総面積六千坪、名古屋の建築物としては、お城と肩をならべる存在となりました。いよいよ五月一日の開店日を迎えると、定刻前から店頭の道路は人でぎっしり整理のため警官の出動をみたほどで、開店と同時にさっとうした人の波は、六千坪の店内を埋めつくして、身動きもできない盛況ぶりでした。

 南大津町の新店舗の設計は、栄町店と同じ鈴木禎二、施工は竹中組であった。伊藤次郎左衛門祐民は、大正十年に義弟の岡谷惣助、加藤商会の加藤勝太郎と外遊をした。祐民は欧米の百貨店をつぶさに視察した。
 南大津町の新店は、外国の百貨店に敗けない店を造りたいという祐民の意欲があふれている最新的な設備がほどこされている店だ。
 暖房冷風設備の店内にはあらゆる商品が網羅してあった。店名も、いとう呉服店改め松坂屋と変った。

 広小路本町角から栄町へ賑わいの中心が移ったのは、いつ頃からであろうか。
 明治四十年、熱田町などが名古屋市に編入された。この年、国際通商港となった名古屋港が開港し、外国からの荷物が積み下ろしされるようになった。
 名古屋と熱田を結ぶ街道の整備が緊急の課題となった。熱田と名古屋を結ぶ街道は、本町通りがある。しかし、江戸時代からの状態そのままの本町通りは狭くて、二つの地域を結ぶ道路としては不完全であった。
 栄町角から熱田へ通ずる道として、熱田街道(南大津通り)があった。この道を改修し、延長することとなった。幅員は十三間(約二三メートル)に広げられ、工事費は総額五四万一九二八円を要した。工事は明治四十年八月から始められ、翌年の四月には完成した。
 四十一年には、南大津通りの上前津から関西府県連合共進会の開催会場となる鶴舞公園へ通ずる道が完成した。
 栄町から熱田伝馬町、熱田駅前から築港へ通ずる電車の軌道を、本町通りに敷くか南大津通りに敷くかが論議された。本町通りの住民からは、電車を通すことへの反対意見が相次いだ。結局南大津通りを電車が走ることとなった。
 本町通りから人の足が遠のくとともに、南大津通りが名古屋の幹線道路として栄えるようになった。
 南大津通りの松坂屋は、いつも人波であふれていた。新しい幹線道路を象徴する百貨店であった。

ねずみ坂・いたち坂

 ねずみ坂、いたち坂と呼ばれていた坂があった。ねずみやいたちが顔を出すという坂ではない。
 ねずみ坂は「寝不見坂」の意だ。月があまりにも美しいので、夜通し、寝ないで月を眺めていたいという坂の意味で付けられた俗名だ。
 十五夜を過ぎ、十六日に出る月を十六夜という。十六夜の次は立待月だ。月が東の空から出てくるのが、しだいに遅くなる。十七日には、立って月が出てくるのを待っているので立待月と呼ばれた。
 十八日に出てくる月は、居待月と呼ばれた。「居る」は、座るという意味だ。月が出てくるのが遅いので、立って待つことができない。座って待つところから居待月というのだ。
 「いたち坂」は「居待月」と「立待月」とを取って付けられた名前だ。十五夜過ぎの十七日、十八日の少しかけ始めた月を賞でるのに、最適の場所がいたち坂であった。いたち坂は南鍛冶屋町にあった。

 月の名所のねずみ坂は、南大津通りから東に下る坂だ。現在でも、南大津通りから東に向けて、ゆるやかな勾配が続いている。そのむかしの坂は、長く急勾配であった。この南大津通りから東側の広小路通りから南、若宮大通りから北の地域は、大坂町、月見町と呼ばれていた。広小路寄りが大坂町、若宮大通り寄りが月見町だ。
 ねずみ坂は、月見町の中を南大津通りから東へ下る坂の名前だ。月見町という町名も、月を眺めるに最適のねずみ坂があったところから付けられた名前だ。
 月見町という町名が付けられたのは、明治十一年十二月のことだ。
 月見町の北側、大坂町も、南大津通りから長い坂が東側に伸びているところから付けられた町名だ。
 長屋の密集している月見町、大坂町の東側には田圃が続いている。田圃の畔には、さまざまな野の花が咲き乱れていた。坂の上からは美しい田圃の畔を月が照らしていた。えもいわれぬ光景であった。

 江戸時代の月見町には、中間が住んでいた。大坂町は下級武士の住む町であった。間口二間、奥行四間ほどの家が軒を並べる八軒長屋に、中間はくらしていた。下級武士も中間と大差ないようなくらし向きであった。
 明治時代になると、これらの人たちは手仕事をする職人となった。
 坂の上の南大津通りには、大正時代になり、松坂屋が進出してきた。高層ビルが立ち並び、一流の会社が軒を並べていた。
 坂の下の月見町、大坂町には家屋が密集した長屋が続き、その日ぐらしの職人たちがくらしていた。坂の上と下では、くらし向きも町のありさまにも雲泥の差があった。
 現在の月見町、大坂町のあった辺は、月を賞でる場所ではなく、美人を賞でるスナックやクラブの並ぶ地にと変わっている。

椿寺

 俗名は時代の流れを反映している。栄町の角から松坂屋に向けての南大津通りを、ティッシュ通りと呼ぶ人がいる。地下街から地上に出ると、すぐにティッシュを渡されるからだ。
 今は休眠状態だがナナちゃん人形も世相を反映した俗名だ。駅前で人と待ち合わせをする場合、ナナちゃん人形の前といえば、すぐにその場所を特定することができる。
 新しい時代の流れのなかで誕生した俗名がいつしか市民権を得る。そしてその俗名は広く流布する。女子大小路などは、その典型的なものであろう。女子大小路は夜、眠らない街だ。ネオンがまたたき、カラオケで歌う声がどこからともなく聞こえてくる。
 女子大と不夜城の街が、どのような関係があるか。それは、現在の東急ホテルの地に、中京女子大学があったからだ。内木学園の経営する学校が、大阪の谷岡氏にと経営が変わった。学校も、この地を去り、高校は東区、大学は大府市にと移っている。
 バブル全盛の頃の女子大小路の賑わいは、すさまじいものがあった。忘年会の頃などにタクシーに乗り、女子大小路を通り抜けようとすると三十分近くもかかった。今思えば、それはうたかたの夢であった。

 女子大小路の西の端、武平町通りを南に向けて歩いてゆく。ビルに挟まれた中に、由緒のある寺が建っている。室町時代に創建されたという金剛寺だ。この寺は戦災にあい、杉の町筋から、この地に移ってきた。『金鱗九十九之塵』によれば、筋名の杉の町は、堀川にかかる中橋から高岳院の門前に至る長い筋であった。杉の町筋の由来については、金剛寺の門前の山林に、杉の大木が茂っていたので杉の町筋と名づけたとしている。
 杉の町筋の中心が万屋町だ。万屋町は清須越の当座は二丁目と呼ばれていた。二丁目は寛文元年(一六一六)に松屋町と改称される。改称の理由は、町名にある金剛寺の門の前に古松がそびえていたからだ。宝永五年(一七〇八)に、さらに万屋町と町名は変わる。三代藩主綱誠の娘、松姫が将軍綱吉の養女となったので、松の字の町名は恐れ多いという理由だ。
 杉の町筋、松屋町の名前の由来となった金剛寺は、もともとは中島郡日下部村(稲沢市)にあったが、慶長年間(一五九六〜一六一五)に、御園通りと伏見通りにはさまれた、杉の町筋の南側の地に移ってきた。
 開基の山堂首座は、明応四年(一四九五)八月、摂津の国に生まれた。織田信長より寺領を拝領した関係で、信長の五十年の年忌を、自分の手で執り行なうことを念願としていた。寛永八年(一六三一)に念願の信長の遠忌法要をすますことができた。遠忌を終えると山堂首座は、いずこともなく飄然と行脚の旅に出かけてしまった。その時、百三十六歳であったが、いたって達者であったという。

 金剛寺の境内に入ってゆく。参道の両側には、松や杉ならぬ椿の木が何十本も植えられている。椿の種類は一様ではない。内外をとわずあらゆる種類の椿の木が植えられていて、花の時期には、異なった種類の椿の花が、次から次にと花を開かせる。甘い花の香りが境内にただよう。金剛寺は椿寺だ。

枕横丁

 中区役所の建っている地は、かつては行政の中心区域であった。愛知県庁があった。愛知県の議事堂があった。警察署があり、消防署があった。県庁の隣には名古屋市役所が建っていた。いかめしい髭をはやした官吏が通りを横行する街であった。官庁街のなかで、異彩を放っていたのは、愛知県立第一女学校である。才媛の集う、この学校に入学するのは至難の業であった。
 武平町から久屋へ通ずる県立第一女学校の筋を枕横丁と人々は呼んでいた。女学校と枕との取りあわせが、なんとも言えずなまめかしい。枕という言葉は、いろいろな意味をもっている。「枕を交わす」といえば、男女が一緒に寝ることだ。「枕芸者」といえば、芸を売るのではなく、体を売る芸者のことだ。第一女学校の生徒は、これらの枕という言葉とは無縁の存在だ。
 では、なぜこの横丁が枕横丁と呼ばれるようになったのであろうか。長いこと疑問に感じていた。

 廃藩置県が明治四年に発布された。愛知、額田の両県を合併し、翌年には、愛知県の庁舎を旧三の丸の竹腰邸の跡に置いた。庁舎は、その後、東別院、久屋町へと移ってゆく。南武平町の第一生命ビルの地に移ってきたのは、明治三十四年のことだ。県庁の近くに議事堂があった。
 議員は近郊に住むものばかりではない。遠く三河や知多半島などから来る議員もいる。現在のように交通が発達しているわけではない。議会にまにあうようにするには泊るしかない。第一女学校の前の筋は、県会議員の借りた家が並んでいた。その家を守り、県会議員の身のまわりの世話をする女性がいる。枕横丁は、県会議員の愛人が、ひっそりとくらしている筋だ。
 この筋を枕横丁とは、言いえて妙だ。

 当時、広小路通りには、名古屋駅のある笹島から明治三十一年に開通した電車が、県庁前まで走っていた。この電車の終点、県庁前に明治三十四年、高さ二十二メートル、砲弾型の記念碑が姿を現した。明治二十七、八年の日清戦争の戦死者を顕彰するために建てられたものだ。
 名古屋の第三師団に対して動員命令が下ったのは明治二十七年八月四日であった。冬の満州の凍てつく荒野での激戦を続けた歩兵第六連隊歴史は、十二月十九日の記録を、途中道を失い、夕食を喫していない部隊も多く、凍傷に罹るもの千六二名の多きに達したと記している。
 この戦争で、現在の名古屋市域で八十名の戦死者が出た。そのうち病死者が六四名にのぼる。いかに過酷な自然の条件下における戦いであったかがわかる数字だ。
 電車は、記念碑のまわりに曲線をえがいて、異様な音響をひびかせて進行した。この記念碑の東北側に、県会議事堂があった。電車の音響のために議事が聞きとれないという理由で、記念碑は大正九年、解体されて覚王山放生ヶ池の畔に移された。

「俗名でたどる名古屋の町 おからねこから七本松

(2007年2月17日(土)14時〜16時00分 地下鉄上前津駅)

おからねこ

 社伝によると、祭神は奈良の三輪にある大神神社に祀られている大直禰子命であるという。「おからねこ」と呼ばれた由来について『尾張名陽図会』には、

 むかしおからねこといふ所は鏡の御堂の事なり。鏡の御堂とて至つて古く荒れはてし堂あり。その中央には本尊も無くして、小さき三方の上にこまいぬの頭一つを乗せたり。世におこまいぬをおからねこといふ異名をつけたりとぞ。そののち年月を経るにしたがひてその堂も跡無し。こまいぬの頭をも今はいづちへ行きたらんもしらず。しかるにその傍に大なる古榎の大樹ありて、枯れくちはててその根ばかりのこれるをおからねとよび、またはおからねことも言ひたり。

と記している。
 理由のひとつは、このお堂には御神体がなく三宝の上に狛犬の頭ひとつが乗せてあった。里人はこれをお唐犬といっていた。それがつづまって「おからねこ」と異名をつけるようになったという説である。
 もうひとつの説は、そののち年月が経つにつれてお堂が跡かたもなくなり、狛犬の頭もどこにいったかわからなくなってしまった。お堂のかたわらに榎の大きな樹があったが、それが枯れはてて、根っ子だけが残っていたのを「お空根子(からねこ)」と呼ぶようになったという説である。
 丸田町交差点の南西角近くに「東 天道 八事みち 南 さん王 すみよし あつた道 西 矢場地蔵 おからねこ道 北 法花寺町 大曽根道 」と記された道標が残っている。
 「おからねこ」が山王社、住吉神社、熱田の社、矢場地蔵などと並んで、人々の熱い信仰を集めていたことを表している。
 大直禰子神社の立札には、「この神社は猫を祀った神社ではない」ということわり書きが記されている。「おからねこ」という名前から、ここは猫の神様だと思って、いなくなった猫が帰ってくるのを祈る人が訪れるようになった。またときには神社の境内にわざと子猫を捨てにくる人もあって、神社の取持役を困らせたという。そのようなことが起らないよう願って、こうした断り書きを記したのであろうか。
 今年八十五歳になられる鳴物の伊和家流四代目小米師こと坂田喜代さんは、大正のころ「おからねこ」でよく遊んだとおっしゃっていた。
 「おからねこは子どものはしかや疱瘡(天然痘)によく効く神様として信仰を集めていて、はしかや疱瘡にかかった子どもたちが親に連れられて、よくお参りにきていました。治ったときの神様送りには桟俵の上にオカラを乗せて、そこに御幣を立ててお供えをしました。おからねこからオカラを連想してお供えしたのでしょうか」
 「おからねこ」については、そのことばから連想してさまざまなことが言われている。ところが、実際に「おからねこ」を具体的に記した文章がある。
 石橋庵真酔の『作物志』の中の「異獣」の項に、

 城南の前津、矢場の辺に、一物の獣あり。大きさ牛馬を束ねたるが如し。背に数株の草木を生ず。嘗ていずれの時代よりか、此所に蟠て寸歩も動かず、一声も吼ず、風雨を避けず、寒暑を恐れず、諸願これに向て祈念するに、甚だいちじるし。然れども人、其名を知らず、形貌自然と猫に似たる故に、俚俗都て御空猫と称す。

 大きさは牛や馬を束ねたぐらいである。背中に草や木が生えている。ずっと以前からこの場所にいて少しも動かない。一声も吠えない。風や雨も平気だ。寒さ暑さも関係なくじっとしている。しかしながら人々はその名前を知らない。形が猫に似ているので土地の人は皆「おからねこ」と呼んだ。人々が「おからねこ」にお祈りをすると願いが叶えられた。だからこそ丸田町の道標にあるように人々がこぞって参詣したのであろう。
 今は地下鉄上前津駅のそばに小さな神社としてひっそりと立っており、氏子も五十戸しかない。
 江戸時代の昔のように「おからねこ」の霊威で人々の集まる神社にならないだろうか。

幽霊坂

 卯木坂を上ってゆくと南側に甘酒長屋がつづく。甘酒長屋の突きあたりに天王社がある。卯木坂をへだてて、その向い側にあったのが酔雪楼だ。
 酔雪楼は、文政(一八一八〜一八三〇)の頃料亭となり、四季を問わずいつも風雅の士で賑わっていた。天保年間(一八三〇〜一八四四)魚の棚の旅亭大惣が、この楼を経営するようになり、いっそう繁盛するようになった。
 前津一の眺望をほこる、この楼からは遠く三国山、恵那山が眺められ、手前には八事の山の裾野が眼前に広がっていた。前津に住む張月樵、小島老鉄はいうまでもなく、多くの文人墨客が、この楼に集い絶佳の眺望を楽しんだ。
 天保三年、当時の著名な俳人が酔雪楼に集い、出された料理の品々を題材として即席に句を詠む会を催した。そのなかの一、二を紹介しよう。

 御膳  一雨にけっそりとへりし雪の山  梅裡
 吸物  手加減にひときは澄やいかのぼり  桃蔦
 大平  一面に湯気たつ池や霜の朝  我竟

 若宮神社の宮司であり、歌人でもあった氷室長翁も酔雪楼で
   おもしろく成まで物の淋しきは前津の里の秋の夕暮
 という歌を詠んでいる。

 明治時代になり、時の流れにはかてず酔雪楼は廃絶する。酔雪楼にかわり、新しい料亭香雪軒が登場する。場所は上前津から東に坂を下り、北側にあった。
 香雪軒について『名古屋案内』は、次のように記している。

 鼻を撲つのは脂粉の香か、頬を叩くは解語の花吹雪か名実共に粋な香雪軒、その昔、一躍桂侯爵夫人の玉の輿に乗ったかな子さんはこの家の前身木村常次郎の養女で、今の古橋およし姐さんの手に渡ったのは明治三十五年一月。
 料理店兼旅館として、泊り込みお誂向な、雑踏を離れた閑静の料境、爪弾かなんかでしんみり遊ぼうとするには、屈境の巣籠場所、昔も変らぬ贔屓筋の多いのも怪しむに足らぬ。調理は名古屋式の通な所を抜き、舌に泌む味のあるのは勿論、庭園も座敷も余裕のある立派な結構、構えの堂々とした点は、中京割烹店の随一である。

 大須の浪越公園にあった料亭松岡支店の経営者木村常次郎が、香雪軒を開業したのは明治十七・八年頃のことだ。木村常次郎の養子かな子が桂太郎に見初められたのは、明治二十四年第三師団長となり、彼がしばしばこの料亭に通い出してからだ。後にかな子は、桂太郎と結婚をする。

 明治の高官に見初められたのは、香雪軒のかな子だけではない。香雪軒の東向いにある花新という芝居の大道具、小道具を作る店の長女すまも、幕末紅葉屋事件で名をはせ、後に司法大臣となった田中不二麿の長男阿歌麿に嫁いでいる。

 瑞穂区石川橋の近くに暮雨巷がある。暮雨巷は俳人久村(加藤)暁台が住んでいた草庵だ。暮雨巷は暁台の付けた舎号であり、広大な敷地は竜門園と呼ばれていた。松村呉春や与謝蕪村も、しばしばこの園に遊びに来た。ある日のこと、遊びに来た蕪村に、襖絵を描いてくれるように暁台が頼んだ。蕪村はすばらしい眺めを眼にして何も描けず、わずかに引手の周囲に点画を描いたのみという。
 竜門は明治になり鈴木ハ兵衛の所有となる。ハ兵衛をひっきりなしに客が訪れるので、いつしか竜門は夜の商工会議所と呼ばれるようになった。
 戦火により竜門は壊滅したが、暮雨巷は石川橋に移築されていたので、戦火をまぬがれた。
 竜門のあった地は、香雪軒と道をへだてた南側、現在の愛知マツダの付近一帯である。

 上前津から東に下る坂は幽霊坂と呼ばれていた。「幽霊の正体みたり枯尾花」ではないが、この坂の幽霊は、白い着物をしまい忘れて、風になびいているのを、遠くから見た人が幽霊を見たと騒ぎ、いつしか幽霊坂といわれるようになった。

死に堀川

 新堀川端に二つのお地蔵さまが鎮座している。一つは記念橋と宇津木橋の間、乗円寺の境内にあるものだ。もう一つのお地蔵さまは宇津木橋を越え、南に少し歩いていくと道端に建っている。二つのお地蔵さまは慈悲にみちこまなざしでいつもむかえてくれる。
 この二つのお地蔵さまは、新堀川の掘削工事で亡くなった人や生きることに疲れはてて、川に身を投げた人を供養するために建てられたものだ。
 川は人を惹きつける不思議な魔力がある。川の流れを見ていて、思わず魅せられるように橋の上から飛び込んだ人もいるだろう。
 いかに多くの人が新堀川に身を投げたか。この川が、新堀川ならぬ「死に堀川」と呼ばれていたことからもわかる。
 新堀川は、精進川を改修したものだ。あまりに多くの人々が新堀川に身を投げるので、精進川という名前の祟りであるとして、新堀川と川の名前は改められた。死者があるときには精進する慣しがある。その名前のために多くの人々が身を投げるというのが改めた理由だ。

 精進川の改修計画は、すでに文政十一年(一八二八)に起こっている。しかし、実現するに至らず明治に入った。その端緒を開いたのは、時の名古屋区長吉田禄在だ。
 明治十六年、禄在は県令国枝廉平に次のような建議文を手渡す。

 西に堀川の一水あれども、その巾狭く、基底浅く、此一水のみを以ては、四境隣国の物品を自在に運送せしむるの便を得ず、又自ら遅滞の患を免かれず。東に舟楫を容るるの水なきが故に、馬駄、車乗倶に其労多く、其便少くして、之れが洪益を起すこと能はず。其地磽?、其民衰頽せざるを得ず。禄在之れを憂へ、嘗てより之を救ふの策を考ふるや久矣。而して之れを救ふや一水を開鑿し、舟楫以て運潭をなすに如くはなし。

 吉田禄在の熱い思いにもかかわらず精進川の掘削計画は遅々として、進まなかった。膨大な予算がかかるからだ。
 しかし思ってもみない僥倖が起こった。
 明治三十七年、日露戦争が勃発した。政府は熱田に九万坪を占める兵器製造所を建設することにした。時の市長青山朗は、精進川の改修工事を断行し、その土砂を兵器製造所に売却する方法を考えた。一石二鳥の名案である。
 青山朗は明治三十八年二月二十一日、工事施工、改修費支出案を市会に提出した。
 工事の施工は巾がもっとも長いところは三十四間七分八厘、もっとも狭いところは二十三間七分八厘とする。改修費には四十五万三千二百八十一円三十九銭の予算をあてる。
 工事は三十八年十月六日着工、その後五ヵ年の年月と九十八万五千九百十円の工費を費し、四十三年には竣工した。計画は予定通り進まず川巾は当初の計画と異なり十五間ないし十三間の拡張にとどまった。水深は三尺とし両岸に護岸工事を施した。
 明治四十四年、精進川改め新堀川となった。

卯津木坂

 記念橋の一本南、新堀川に架っている橋が卯津木橋だ。下前津と鶴舞公園とをつなぐ道は、幹線道路大須線の脇道としていつも車の往来が激しい。卯津木橋の上も、たえず車が走っている。この橋の名前が卯津木橋と名づけられたのは、橋を渡り下前津へ抜ける坂が卯津木坂と呼ばれていたからだ。
 今は、橋を渡ると長い坂が下前津に向けて真っ直ぐに通っている。かつての卯津木坂は不二見筋にむけて、斜めに抜けていた。
 坂の下を熱田へ抜ける道があった。卯津木坂と熱田へ抜ける道とが交叉する所に今井という獣医が住んでいた。人々は、この獣医の家を御馬屋と呼んでいた。
 馬屋の西側に高さ一丈(約三メートル)もある卯木がそびえていた。卯木にちなみ陰暦の四月のことを卯月と呼ぶ。ちょうどこの頃に白い花を咲かせるからだ。歌によく卯の花月夜が詠まれている。卯の花が白く咲き、月光の美しい夜のことだ。

 初夏の頃、坂に通りかかると卯木の花のよい香りがただよってきた。卯木の花の咲く、この坂を人々は卯木坂と呼ぶようになった。
 この花は大きくも小さくもならなかった。いつの頃のことであったか、獣医があまりにも小枝が繁茂しているので、これを剪定しようとして鋏をいれたところ、突然歯が痛みだした。枝を切るのをあきらめて、床についた。夜中になるとますます痛みは激しくなる。たえきれない痛みであった。翌日、医師に診てもらったが、いっこうに痛みはひかない。二日三日と痛みはひかなかった。思いあまって易者に占ってもらった。易者は、「これは卯木を切ったたたりである」と言った。
 獣医は驚いて、さっそく卯木のまわりに注連を張り、玉垣をめぐらし御祓いをした。
 歯の痛みはたちまちのうちに直った。
 そのことがあってから、里人で歯痛のものは、この木に詣でて治癒を祈願した。
 歯痛が直ったものは、この木の前に籾一升を供えて本復のお礼とした。

 宇津木坂を下り、田圃道を東に進んでゆくと小川が流れている。この小川に架っている橋を下エンネ橋という。香雪軒の前の道に架っている橋は上エンネ橋と呼んだ。さらに東の精進川に架っているものを遠エンネ橋、西にあるものを近エンネ橋といった。橋は巾一尺五寸の白石を三枚ずつ並べたものであった。
 エンネ橋とは前津の百姓円右衛門の名前をとって付けられたものだ。田圃の中の小川は、大雨の時にはいつも氾濫し、板橋は流されてしまう。人々が困っているのを見かねて、円右衛門は、ひとりで四つの石橋を架けた。貧しい農家の円右衛門が、とぼしい資金と忙しい農作業の合間をぬって橋を架けたのは並たいていのことではない。人々は円右衛門への感謝の意をこめて、エンネ橋と名づけたのだ。

大池

 大池は前津の水田約十五町三段余の灌漑用水として元禄期(一六八八〜一七〇四)にすでに開削されている。別名麹が池とも言った。池の面積は六千坪、周囲四町五十七間三尺、縦九十間、横六十七間あった。野中にある大きな池、そしてその池は麹のように澱んだ池であったので、大池あるいは麹が池と呼ばれていたのであろう。周囲は高い堤に囲まれていた。堤の上からは八事の山や御器所の大薮が手前に広がり、遠くは恵那の山々が見わたせる眺望絶景の地であった。春ともなれば安政七年(一八六〇)二月に植えられた数十株の桜が池に華やかな彩りを添えた。水面に桜の花が散り落ちる様子は何ともいえない風情があった。池には舟を浮かべて遊ぶ人、堤で草摘みに興じる人、大池はいつも多くの人々で賑わった。これらの行楽の人たちを相手とする掛茶屋が軒を並べていた。
 大池は凧あげをする絶好の地であった。嘉永三年(一八五一)年末に刊行された『名区小景』に大池の凧あげを詠んだ歌が幾つか載っている。その中から二、三選んで紹介しよう。

   きそひあくるいかの数さへおほ池は春めきぬらし水の心も    秀樹
   きさらきや大池野へあこかれていかはかりかは風にまかする  利恭
   春風に大池あたりのうねの波たこを揚人のあらす芋畑      長彦

 正月と七月の二十六夜待ちでは、堤の上は月を待つ人でたいそう賑わった。二十六夜待ちとは夜半に月の出るのを待って拝することである。月光に阿弥陀仏・観音・勢至の三尊が姿を現わすと言い伝えられていて江戸時代盛んに行なわれた月待ちのことだ。
 『猿猴庵日記』の安永六年(一七七七)七月の項に、大池に三尊が姿をお現しになって大変な騒ぎが起こったと記されている。
 阿弥陀仏が出現したといううわさが伝わると同時に、それを巧みに詠みこんだ歌が広まった。さらに歌に手ぶりを添えて「しよがへ しよがへ」という踊りが流行した。踊りの輪は名古屋の街のいたる所で見られた。
   今としや世がよとて 仏さまのござって
   町家在郷は丸抜けじゃ しよがへ
   どんしやめ どんしやめ
 この歌にあわせて踊りの行列は続く。

 大池は遊びに来る人ばかりではない。世をはかなみ、池に身を投げる人もいた。大池の堤の上に、それらの人を供養する碑が立っていた。今、その碑は福恩寺に移され、境内に祀られている。

 大池の埋めたてが始まった大正時代になってからだ。埋めたてにからむ疑惑事件が起り大正八年名古屋市会が紛糾した。『総合名古屋市年表大正編』は次のように記す。

 六月十四日 都市計画岩井町線にからむ、池事件が熾烈化し、大岩名古屋市会議長辞任届を提出、同月二十一日の市会本会議において大岩前議長を、激しく糾弾し、波瀾万丈となる。

 十八日には大喜多寅之助が議長に就任、しかし、事件はなかなか沈静しなかった。

七本松

 昔は旅立つ人に贈る餞別のことを「馬の鼻向け」といった。この言葉からもわかるように、馬と旅とは切っても切れない関係にあった。大きな街道では、宿駅に馬を備えて旅人の便宜をはかった。
 街道沿いには、旅に欠かせない馬の保護神として、馬頭観音が祀られていた。馬頭観音は頭上に馬頭をいただいて忿怒の相をなした観世音菩薩だ。普通は三面であるが、二臂、八臂のものもある。
 馬頭観音は道行く人を災難から守る神であり、他郷から旅人によって流行病が村に入ることを防ぐ神でもあった。

 記念橋を渡り、鶴舞公園に向けて大須通りを歩いてゆく。二本目の道を南に曲がると、すぐ裏側に白龍神社がある。商売繁盛の神様として、名古屋では白龍神社を信仰している人は多い。
 この神社には、白龍を上段に祀り、下段には馬頭観音が祀ってある。
 江戸時代、前津から御器所、うつしの森(現在の高辻)から笠寺、そして鳴海へ通じる道があった。鳴海では東海道に合流する。
 前津の坂を下った田圃の中の道端に、馬頭観音が祀られていた。土地の開発とともに道も町も様相が一変してしまった。古い道端の馬頭観音が、ここに合祀されている観音ではないだろうか。

 道の祈願を祈るのが馬頭観音ならば、旅の目印となるものが七本松だ。今では町名と公園の名前、神社の名前として残っているだけだが、かつては路傍に大きな七本の松が空高くそびえていた。

 横井也有は『前津七景』の中に七本松を路傍古松として、前津七景の中に選び、次のように記している。

 路傍古松とは、世に七本松とよべり。あるは相生めきてたてるもあり。又程へだたりてみゆるもあり、染めぬ時雨のゆふべ、積る雪の朝のながめ殊に勝れたり。草薙の御剣のむかし話を追ひて、もし此七つを以て辛崎の一つにかへむといふ人ありとも、我は更におもひかへじ。

 也有は、日本一の名松琵琶湖の辛崎の松に替えようという人があっても、自分はそんなことは少しも考えないと七本松に対する強い愛着の念を吐露している。

 『猿猴庵日記』に次のような記述がある。

 前津大池の東、汐川辺、七本松の内、立願奇湍有とて日夜共に、老若群衆、殊の外、繁盛ゆへ、商人なども多くでる。

 この時の騒ぎを詠んだ狂歌が

   七本の松に願が叶ふげな  あふいけあふいけと人はどんどん

 「あふいけ」には、地名の「大池」と「それゆけ」の意がこめられている。
 七本松に願をかければ、願いごとを叶えてくれる、それゆけ、それゆけと人々はおしかけ時ならぬ騒ぎが起こった。

 この七本松も、年とともに枯れて三株だけになった。その三株も天保五年五月二十一日の夜に折れて二株となった。
 残りの一株も大正二年に枯れてしまった。

堀川文化探索隊トップへ戻る